
震災体験者のお話

私の母の実家が、毛矢町にあり、そこで地震に遭いました。
当時6歳の母の弟が遊びに出かけていて、倒壊した家の屋根の三角の部分に閉じ込められたが、近所の人に助けられました。
実家は地震で倒壊を免れたものの、近所の薬品会社の倉庫から出火した火事が延焼して、燃えてしまったと聞きます。
(鍋谷世津子 女性 昭和11年生 福井市)

家がほとんど倒壊し、道路を塞いでいた。当時丸岡駅前の田島川野そばで友達と遊んでいたが、一瞬にして川の水が一様に増水し、同時に町内から火が出て、同じ町内で亡くなった方が一人いました。当時丸岡町谷町1丁目にいました。
(男性 83歳 丸岡町)
私が聞いた話

空襲より福井地震のほうが、予期できずに大変だった。
状態的には、 どちらも〝火の海〟だった と、聞く。
(男性 70代 福井市)

福井大学で先生から、1階の机の足の下から60センチ位のところに、線があるのを見せられ、これが福井地震の後にあった洪水の痕だと教えてもらいました。
(男性 70代 福井市)

彫刻家の加藤先生が片腕が無いのは、映画館で自信に遭い、石に挟まれ脱出できず、オノで腕を切ってもらい救出されたという話を聞きました。
(女性 70代 鯖江市)

2歳の頃ですので、憶えていない。親も話していないので、敦賀は大したこともなかったのかもしれません。
(男性 昭和21年生まれ 敦賀市)

大きな動物が流れていったのを見たと言う話を、聞きました。
当家も、空襲、地震、火災、水害で何度も家を失いました。今ある命が当たり前と思わない、日々感謝、大切に一秒一秒を味わって生きないと、もったいないと思う。
(女性 昭和38年生まれ 福井市)

福井大学で先生から、1階の机の足の下から60センチ位のところに、線があるのを見せられ、これが福井地震の後にあった洪水の痕だと教えてもらいました。
(男性 70代 福井市)

家がほとんど倒壊し、道路を塞いでいた。当時丸岡駅前の田島川野そばで友達と遊んでいたが、一瞬にして川の水が一様に増水し、同時に町内から火が出て、同じ町内で亡くなった方が一人いました。当時丸岡町谷町1丁目にいました。
(吉田克也 83歳 丸岡町)

当時、今立に住んでいた父は、地震を経験したそうです。
余震があり、家の中も危ないので、家の裏にあった竹藪の中で数日間過ごしたそうです。(地震の時、父は近所の家の池で、いたずらで魚を取ろうとしていたらしい。地震で池に落ちそうになったと言っていました。)
ちなみに母は彦根に住んでいましたが、 彦根もかなり揺れたそうです。棚に載せていたものがいろいろと落ちたと言っていました。
(女性 昭和40年生まれ 今立京都)

生まれたばかりの姉が、二階の部屋で寝ていたのに、家が倒れて、庭で泣いていたのを、家族が見つけたらしい。祖父が仏壇で家族が助かりますようにと願っていたら、仏壇が倒れて、その中で亡くなったと聞きました。
患者さんの話ですが、倒れた映画館の下から抜けられず、右腕を切断して助かった話など。
(女性 昭和38年生まれ 福井市)

空襲・震災・洪水の不死鳥マイ母の話
私の母は、福井空襲時に、福井市の旭小学校のそばに住んでいて、命こそ助かったものの家を焼かれて、その土地を売り、家族ともども春江に移り住み、今度は福井地震で罹災しました。
地震の日、母はお昼ご飯を食べようと勤め先を出て通りを歩いていたら、どーんと言う音とともに、気が付くと路上に転がっていた。もうもうとした黒い埃であたりは真っ暗になり、何も見えなくなった。
その埃が静まった後で母が見たのは、家がすべて潰れて、背の高い建物は何もなく、あたりがぺしゃんんこになっていた。崩れた後から、出てきた人たちの顔は真っ黒で、目と口だけが白く光っていて、可笑しかったと笑っていました。その後、福井洪水にも遭遇し、ドーーーっと水が流れてきた!と、不死鳥マイ母は、朗らかに語りますが、子どもの私は重く重ー-く聞いてました。
(下出若菜 昭和38年生 福井市)

中学校の教師から聞いた話
空襲で焼け出されたのは、戦争だから仕方がないし、それにくじけてはいけないと思って頑張っていた。
しかし、終戦後すぐの福井地震の方がさらに被害が大きく、精神的なショックも大きかった。やっと生活を立て直していこうとしていた矢先だったので、空襲の時よりも成長していた自分にとっても、大人たちにとってもやり切れない思いがあって、しばらくは何も手につかなかった。「頑張ってもなぁ…」
これじゃダメだ、 不死鳥のごとく、頑張るのだということで、「不死鳥の誓い」ができたんだ。
空襲の後に復興しようとして地震。でも頑張って立ち上がろうとしたら洪水があったんだよ。だから福井県は北陸三県で、経済的に厳しい県になったんだ。
(女性 60代 福井市/練馬区)

空襲・震災・洪水の不死鳥マイ母の話
私の母は、福井空襲時に、福井市の旭小学校のそばに住んでいて、命こそ助かったものの家を焼かれて、その土地を売り、家族ともども春江に移り住み、今度は福井地震で罹災しました。
地震の日、母はお昼ご飯を食べようと勤め先を出て通りを歩いていたら、どーんと言う音とともに、気が付くと路上に転がっていた。もうもうとした黒い埃であたりは真っ暗になり、何も見えなくなった。
その埃が静まった後で母が見たのは、家がすべて潰れて、背の高い建物は何もなく、あたりがぺしゃんんこになっていた。崩れた後から、出てきた人たちの顔は真っ黒で、目と口だけが白く光っていて、可笑しかったと笑っていました。その後、福井洪水にも遭遇し、ドーーーっと水が流れてきた!と、不死鳥マイ母は、朗らかに語りますが、子どもの私は重く重ー-く聞いてました。
(下出若菜 昭和38年生 福井市)

中学校の教師から聞いた話
空襲で焼け出されたのは、戦争だから仕方がないし、それにくじけてはいけないと思って頑張っていた。
しかし、終戦後すぐの福井地震の方がさらに被害が大きく、精神的なショックも大きかった。やっと生活を立て直していこうとしていた矢先だったので、空襲の時よりも成長していた自分にとっても、大人たちにとってもやり切れない思いがあって、しばらくは何も手につかなかった。「頑張ってもなぁ…」
これじゃダメだ、 不死鳥のごとく、頑張るのだということで、「不死鳥の誓い」ができたんだ。
空襲の後に復興しようとして地震。でも頑張って立ち上がろうとしたら洪水があったんだよ。だから福井県は北陸三県で、経済的に厳しい県になったんだ。
(女性 60代 福井市/練馬区)


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