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鍋谷世津子さん(昭和10年生)の空襲体験

福井の空襲

鍋谷 世津子 さん
 女性 昭和10年生まれ 福井市足羽下町

福井の戦時中の話

 鍋谷さんからは『福井の戦争』ではない、福井は一方的に米軍に空襲されただけで、やり返してないから『戦争』ではない、『戦災』または『戦時中』であると、訂正をいただきました。

 鍋谷さんは昭和10年生まれ、福井市の橋南(きょうなん)と呼ばれる足羽川にかかる九十九橋の南側、足羽下町の酒卸小売店の次女として生まれました。

 1945年7月19日夜、警戒警報に続き、空襲警報が響き、当時9歳の鍋谷さんと家族6人も避難を始めようとしますが、鍋谷さんの上の姉が「避難しない」と言います。
 女学校に通っていた姉は、『逃げずに消火しろと』学校で言われたと言うことです。
 既に九十九橋の向こうでは空襲が始まり、真っ赤な火の手が上がるさなかのことで怖くて、とても強く思い出に残っていると、鍋谷さんは語りました。
 木でできた日本家屋を紙のように燃やすために、ガソリン等で製造された焼夷弾は、水では消火できません。逃げずに消火すると教えられていた長女を、身重の鍋谷さんのお母さんは叱り、説得し、鍋谷さんと姉と弟2人、妹1人を連れて、ようやく足羽山へ避難を開始します。

 空襲の際、テレビや映画では防空壕に避難するエピソードがよく見られますが、一般の家庭の防空壕は、家に火がついたらいっしょに燃えてしまう簡易なもので、山に避難したという体験は多いです。
 空襲が始まる前に、米軍は照明弾を落とすので、周りは昼間のように明るくなり何もかもが丸見えになるので、隠れるものがない足羽川に逃げることはできませんでした。

 足羽山の険しい崖を幼い子どもと妊婦がどうにかよじ登り、木立に身を潜めて山に逃げたほかの家族らと、家の方を眺めると、鍋谷さんの家やほかの家にも焼夷弾が落ちて燃えてるのが見えました。翌朝、家のあたりに戻ると全て焼けた後に酒瓶が溶けたガラスの塊がありました。
 九十九橋で炊き出しがあり、鍋谷さん達は麦の混じったおにぎりを食べました。家はみな焼けたと思っていたので、おにぎりを作ったのはどこだろうかと子ども心に不思議に思っていました。

 鍋谷さんのお父さんは警防団員の班長で、空襲の夜は橋北(九十九橋の向こう)の電話局に詰めていました。電話局の女子職員は非常時には、電話局に集まるよう指示されていました。建物がコンクリで頑丈なの、直撃を受けても、火災に遭ってもシェルターがあり、安全だと言われていたようで、最後まで任務を果たそうと避難せず職場に残りました。当時そんな人が日本中に沢山いたそうです。鍋谷さんのお父さんも、部下を全員避難させて、電話室に残りました。
 米軍の予想以上の火勢に、火事にこそならなかったものの、シェルター内の温度が上がり、熱さと喉の渇きと煙で、鍋谷さんのお父さんは女子職員の半分の23人とともに、窒息死しました。
 空襲の後、鍋谷さんのお母さんが他の団員に夫の消息を尋ねると、団員は皆避難できたので、生きているはずだと答えました。
 鍋谷さんは、お父さんの死んだ詳細をこれまで知らなかったそうです。窒息死したお父さんの遺体は、きれいでした。
 終戦の玉音放送の時、鍋谷さんのお母さんは「お父さんは犬死にした」と言いました。

 空襲の後は、家を無くした鍋谷さん達は、お父さんが生前疎開用に用意した郊外(大町)の親戚の家に移り住みました。しかし、食べるものがなく、毎日薄々のお粥でした。
 焼け出されて弁当を用意できない子どもたちは、昼になると家にお粥を食べに帰り、学校ではそれを黙認しました。
 地域では、空襲に遭った人達は『焼け出され』と呼ばれ、『焼け出され』が来ると、物がなくなる(盗まれる)と揶揄され、地厄介者扱いされました。
 借家での生活も、一年足らずで出ていくように言われて、鍋谷さんのお母さんは女手一つでお金を工面して、元の足羽下町に家を建てることができました。

 鍋谷さんと同じ年頃の昭和9年生まれの私の母が、空襲体験の話はするものの、戦争の是非や政府や政治や米国について何も言わないのが不思議だったので、そのことを鍋谷さんに尋ねました。
 鍋谷さんは当時9歳だったので、周りの大人たちからは何も知らされず、あの戦争がどうだったかは分からなかったけれど、当時の人達は誰も、空襲について何も分かっていなかったと思う、と鍋谷さんは言われました。
 政府は空襲される想定をしていなかったと思う、国民は武器を持たされていなかったし、もし武器を持っていたら、政府がやられていただろうとも。日本政府はあの戦争の説明を、きちんとしていない。「勝った」「勝った」のニュースは空襲以前の事で、政治に近い人しか、戦争の真実がどうだったか、分からないだろう。ただひたすら、もう戦争は嫌、戦争はごめんです、それが鍋谷さんの言葉です。
(インタビュー 2023年12月30日 Wakana Shimode)

九十九橋

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