空襲経験者の声
なぜ福井を空襲したか、子ども心に怖かった。
私たちは、無抵抗でした。
(女性80代 福井市)

父が戦地(中支)から帰ってきた時、ひしゃげた飯盒、潰れた水筒を持って、土産に黒ずんだ乾パンをくれ、おいしかったのを覚えています。
(吉田克也 男性 82歳 丸岡)

ただ私のところ(丸岡町)まで、来ないように念じた。
また父が兵隊として、戦争に行っていたので、ただ無事であれと思った。
(男性 83歳 丸岡町)

戦争で兄は脇腹に銃弾を受け、帰国してから時々痛がっていました。
親戚で一番優秀だった従兄弟が、大学を卒業とともに学徒動員で、戦死しました。
学校は焼けていくつかの分校となり、友達と別れ別れになりました。
若かったのか、戦後の新しい学生生活が楽しく、辛かった事が忘れがちになります。
ただ戦争は大反対です。
(女性92歳 福井市)

アンケートより
怖い、死ぬ かもしれない恐怖感
(女性50代 越前市)

恐ろしい
(男性72歳 福井市)

戦争の 悲惨さ
(男性50代 越前市)

戦争とはそんなもん やなあ。
(女性60代 坂井市)

無差別に攻撃する非道さ が、理解できない。
(男性 昭和37年生まれ 越前市)

戦争は悪である
自分達の時代に戦争は起こしたくない。
(女性40代 越前市)

戦争の情報の的確な分析ができていなかった事。
また、正しい情報に基づいた判断ができていなかった事。そのため戦争になった。
(男性 昭和37年生まれ 鯖江市)

たとえは悪いかもしれないが、 太平洋戦争は、隣の家の親父の顔を平手で殴ったら、
『自分の家の女子ども老人を含めて殴り倒された』みたいなイメージがある。
(女性 昭和38年生まれ 福井市/練馬区)

日本の敗戦が、ほぼ決まっている中、 米軍が一般市民を殺害するのは、ロシアがウクライナ人をミサイルで殺しているのと何も、変わりがないと思います。
(男性 81歳 福井市)

敦賀と違って軍の設備もなく、防空体制も整っていない福井市への空襲は、 二次戦末期における米軍による一般市民の虐殺 とも言えるもので、
話を聞いた当時は中学生であったが、理不尽であると感じていた。
(女性 60代 福井市/練馬区)

命の重さが軽くなる戦争。
理不尽。昔も今も戦争はなくならない。
(男性 50代 福井市)

戦争は、大変愚かなことである。努力してきたことや、人の生活を台無しにするもので、残酷なものである。
(男性 69歳 福井市)

福井空襲で福井市内は大きな被害が出たが、「農村部は全く被害がなく、アメリカ軍の飛行機が飛んで行くのを、見ていただけ」「福井市内の空が赤くなっているのを遠くで見て、空襲に遭ったなと思った」という風に、福井の人でも、市内に住んでいた人と農村部では、被害に差があり、空襲に対する気持ちも違うと感じた。
(女性 昭和38年生まれ 福井市/鯖江市)

戦争は本来、軍人同士が戦うものです。民間人を殺すのは戦争ではありません。それも町の外側から火をつけ、中にいた住民を焼き殺そうとするのは、ジェノサイド以外の何物でもありません。
当時国内では「鬼畜米英」と呼んでいたそうですが、まさに 鬼畜の所業 としか思えません。
(男性 昭和45年生まれ 福井市)

私の家は、県庁南へ車で25分にあります。昭和16年に田んぼの真ん中に建てられ、白壁で二階建と背が高く大きな家で目立つので、空襲を避けるために、壁を黒く塗り替えた方が良いのではないかと考えたと、親は私に話してくれました。
福井県立博物館での特別展示や、地元の歴史懇話会で、福井空襲のいろいろな写真や資料を見て、被害の大きさを知り、私の子どもには親から聞いた話、私が知っていることを伝えました。
私は戦争体験者ではないが、子・孫へと、戦争の悲惨さを語り継いで行かねばと思う。
(男性 70代 福井市)

周りから福井空襲や戦争の事を子どもの頃から何度も聞かされ、それが私の人生の重い一部分となった。マスメディアで、ベトナムの反戦運動など、アメリカのサブカルチャーブームがあり身近だった。
しかしその実態は、福井市の真ん中が空襲で焼失する甚大な被害を受けたが、罹災した市民それぞれの個人的なバックグラウンドによって、その後の人生が残酷なほどに、異なっているのに驚いた。
日本は災害大国、被害があった人とそうでない人との間で、著しい不平等が発生しないような救済を実行しなければならない。
(女性 昭和38年生まれ 福井市)



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