1945年7月12日の敦賀空襲について
敦賀市における戦災の状況
昭和20(1945)年7月12日深夜の敦賀空襲は、日本海側の都市として最初のものであった。米軍による日本本土空襲は、6月中旬以降、呉・福岡など地方都市に目標を移しており、高射砲による反撃もかなり貧弱になっていたことから、夜間に低高度で進入して大量の焼夷弾を投下する戦術が採られるようになった。敦賀市(人口3万1000人)は、爆撃目標とされた都市の中で最も規模の小さい市であったが、米軍の「作戦任務報告書」では、朝鮮との3大定期連絡港の1つであり、関門海峡の機雷封鎖によって日本海航路の重要性が高まっているとして「重要な目標」にされていた。
当日の敦賀市の天候は戻り梅雨で、上空は厚い雲におおわれており市街地東部の河東地区がまず火の海となり、児屋川と旧笙の川にはさまれた川中地区にひろがり、2時間程の爆撃で、市内の全戸数の約7割にあたる4119戸(復興事務所調査では4273戸)が焼失し、1万9000人の市民が家を失った。
その後敦賀市には、小規模であったが30日、8月8日と2度の空襲があり、特に8日のものは、9100メートルの高空から、昼間に目視で「化学工場」(実際には東洋紡績敦賀工場)を標的として投下した、
原子爆弾の模擬弾であったことが、後に明らかになった。
/福井市における戦災の状況(福井県)総務省

敦賀市の被害地図
赤枠内が焼失した地域。(地図:Google)
1945年7月19日の福井空襲について
福井市における戦災の状況(福井県)
昭和20年(1945)7月19日午後10時15分頃、福井地区に警戒警報が発令された。警戒警報のもと、市民が極度の不安に脅えていた午後10時55分頃、福井警視哨からの不気味なサイレンが響き渡った。と、間髪を入れず、上空に姿を現した127機(爆撃機116、先導機11)のB29は、まず始めの焼夷弾を西別院付近に投下した。ものすごい爆音と共に西別院の高い建物が真っ赤な炎となって夜空を染めた。
乱舞するB29からは、2時間にわたり10万本以上(953トン)の焼夷弾が渦巻き状に撤き散らされ、市街地の95%以上が焼け野原になった。油脂弾は全市を猛火で襲い、防空壕に避難していた人々は熱気で蒸焼きとなり、水を求め福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人々は折り重なって死んだ。官庁、会社、工場などそれぞれの職場で殉職した人々も多く、特に福井郵便局電話室では、20人の女子職員とこれを救援しようとした警防団員3人が犠牲となってしまった。 /福井市における戦災の状況(福井県)総務省
| 罹災前人口 | 罹災人口 | 罹災前世帯数 | 罹災世帯数 | 死亡者数 | 重症後死亡者 | 重傷者 | 軽傷者 | |
| 103,049 | 85,603 | 25,691 | 21,992 | 男: 661 | 女: 915 | 108 | 1,210 | 5,209 |
| 合計 | 1,576 |

福井市の被害地図
赤枠内が焼失した地域。米空軍が撮影した福井空襲被害状況の航空写真より作成(地図:Google)

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