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福井空襲について、私が聞いたこと ②

福井の空襲

私が聞いた福井空襲の話

祖母の日露戦争の話
祖母が時々歌を歌ってくれて、リズム・歌詞を、今も多少憶えています。印象に残っているのが
 ニッポンカッタ 
 ニッポンカッタ
 ロシアマケタ 
 ロシアのグンカン 
 ソコヌケタ

(女性60代 福井市)

 空襲があり、夫(72)の古物商の倉に焼夷弾が落ち全てが焼け、夫の家族は火災から逃げたと聞きました。
 私の両親は、二人の子どもを連れ、父(大正12年生まれ)はチフスに罹りながらも、大変な苦労して満州から日本に帰ってきました。その為か父は大変肝が据わっていて、多少の事では動じませんでした。
(女性60代 福井市)

 母の幼馴染が出征してビルマ(ミャンマー)に行き、帰らなかったそうです。一緒に映画館で「ビルマの竪琴」を観た際、母は「〇〇ちゃんもビルマで生きてるかも知れんの」と呟いていました。
 親戚の叔父さんは、大陸での過酷な戦場体験で精神を病み、復員後も廃人同様のまま、若くして亡くなったと聞きました。 
(男性 65歳 現在春江町)

 親族が富山県に多く住んでいるので、富山の大空襲の話はよく耳にした。今年の年始にも、あの日どこにいたのかが親族で話題になった。
 8月1日の花火大会は、鎮魂の花火であり、見るたび思いをぐめらす機会になっている。ただ、どんなに大変で苦しかったとしても、そこには確かに人々が日々を営んでいたのであり、今日に繋がっていて、それをさらに未来へ繋げていくことが、微力なりとも、今を生きる人の意義だと思う。               (女性 昭和38年生 福井市/東京都)

 父(昭和11年生まれ)が舞鶴にいた小学生の時、毎月のように空襲警報が出て、毎回防空壕に入った。緊急時は自宅の庭にあった穴倉に入ったが、穴倉は三人しか入れないような小さなもので、暗くて不安しかなかった。
 空襲で燃える瓦葺きの屋根を見ながら、怖くて、怖くて、父(私からは祖父)と必死に逃げた覚えがある。焼夷弾が空から落ちてくると、火が点いて明るくなり、周りの全てが見えてしまうので、怖い、怖い、炸裂と火花の音で夜も眠れない。
  一日一日が生きていることに感謝した、と父が話してくれました。
(女性50代 福井市)

       

 祖父が満州鉄道の社員となり、家族や仲間とともに大陸に渡り、最初は大変裕福な暮らしをしていた。
 しかし日本の戦況が悪くなると、周囲の態度が悪くなり、祖父が会社に行って家にいない間は、父はずっと隠れて過ごすようになったという。
 祖父が日本に帰国することになったがその帰途、父が皆とはぐれて迷子になってしまった。父を心配して残る人と、予定の列車でそのまま帰る人とに分かれたが、不運にもその列車は爆撃を受けほぼ全滅、父を探して残った人達は助かったけれど、炭俵に隠れたり、帰国までは大変な苦労をした。
 道中さらに祖母(父には母)も病死し、途方に暮れた父は数日祖母の亡骸と一緒に過ごし、現地の人が見かねて火葬をしてくれた。
 その遺骨の入った箱を枕にしながら、なんとか帰国したが、極度の栄養失調で、父は長く入院した。 
(男性50代 越前市)

       

中学校の教師から聞いた話
 空襲で焼け出されたのは、戦争だから仕方がないし、それにくじけてはいけないと思って頑張っていた。
 しかし、終戦後すぐの福井地震の方がさらに被害が大きく、精神的なショックも大きかった。やっと生活を立て直していこうとしていた矢先だったので、空襲の時よりも成長していた自分にとっても、大人たちにとってもやり切れない思いがあって、しばらくは何も手につかなかった。「頑張ってもなぁ…」
 これじゃダメだ、 不死鳥のごとく、頑張るのだということで、「不死鳥の誓い」ができたんだ。
 空襲の後に復興しようとして地震。でも頑張って立ち上がろうとしたら洪水があったんだよ。だから福井県は北陸三県で、経済的に厳しい県になったんだ。 
(女性 60代 福井市/練馬区)

       

 私の親は福岡出身で、20歳で終戦を迎えています。当時予科練生で、零戦の整備などの手伝いをしていたと、聞いています。
 私の親が、戦後のカオスの世を生き抜いたことに、敬意と興味を持ち、私の親が青春時代を過ごしたカオスの世を知りたい、体験したいと思いました。制作のためにモスクワに行くことになり、1988年、モスクワで戦後の疑似体験(カオス)を味わうことができました。駅前に立って一握りの野菜を売っていました。
 自分自身のルーツを探る為に、自分の親、先祖が体験したことを強くイメージする、あるいは疑似体験することで、自分の中に実感として取り入れることに意味を見つけたい。
 (男性65歳 福岡県/福井市)

       

 実家の母(昭和10年生まれ)と、ほぼ初めてまじめに、戦争の話をしました。
 子どもだったので、状況が理解できない母は、空が赤くなった方を見て、きれいだと思ってしまったそうです。
 母の父(祖父、大正生まれ)が、空襲の後に、弟を探しに福井市内に行き、沢山の人が亡くなっているのを、一人一人筵をめくって確認して歩いたと、母は聞いたそうです。
 福井空襲の時、沢山の人が福井市内のお堀に身を投じて死んだということがありましたが、それが私の親の世代に起き、さほど昔の出来事ではないと感じました。
(女性 昭和38年生まれ 越前市)

       

 空襲当時、駅裏に住んでいた父(昭和9年生まれ)は、逃げ回ったと子どもの頃に聞きました。
 大人になって世界中の戦争を知るようになり、少し現実の事として受け止められるようになると、戦後間もなく福井震災もあり、
  貧しさの中で暮らした親たちの、当時の生活について考えることがありました。
(男性 59歳 福井市)

①空襲警報のサイレンや防空頭巾、灯火管制

②B29の爆撃で真っ赤に焼けたトタン等が飛来して、九頭竜川に落ち、ジュッと白い湯気が上がったこと。

③8月15日は玉音放送をラジオで聞き、頭を垂れた家族や近所の人々。
(中村 恵實さん 男性 昭和20年生 福井市森田町)

父(昭和9年)から聞いた話 「子どもの泣き声」

宮本裕美子 さん
 女性 昭和38年生まれ 福井市/四日市市

 昭和9年生まれの父は、父(私からは祖父)を早くに亡くし、年上の兄二人は軍需工場に行き、母(私の祖母)と妹と3人で福井市照手に住んでいたそうです。
 空襲の夜は、祖母が父(11歳)の手を引き、父が妹の手を引き、瓦礫の中を逃げ回るとき、瓦礫の中から子どもの泣き声が聞こえてきた。気が動転していた祖母は「ヨーコ!ヨーコ!」と妹の名前を呼んで、瓦礫をかき分けて助けようとした。
 実際は、父は妹の手を握っていたわけで、夜間だし、火の手は迫ってくるし、今この場にいたら、3人ともどうなるかわからない。
 「母ちゃん、ヨーコじゃないよ、ヨーコはここにいるよ」
と、父は祖母に言い聞かせて、3人でその場から逃げたそうです。
 そこで、父は口を閉ざしてしまいました。 泣き声の子どものことを思ってか‥‥

左が、父 と祖父 

前列左から、伯父・父の長兄、祖母・父の母、父28歳、母20歳、祖母・母の母 中列左から2人目、叔母・ヨーコ 後列左から2人目、伯父・父の次兄 子供たちは二人の伯父の子で私のいとこ(昭和37年3月)↓

叔母(昭和15年)母(昭和9年)から聞いた話 「黒こげの死体の山」

下出 若菜 さん
 女性 昭和38年生まれ 福井市

 桜の時期は毎年母(90歳)と妹の叔母(84歳)と会食しますが、この度初めて、叔母にも福井空襲のことを尋いてみました。
 空襲警報が鳴り、いつもは山に逃げるのだが、祖父が「こりゃいかん!」と子どもたちを集めて、荒川の中に座らせ布団を被せ、布団の上からバケツでじゃんじゃん水をかけた。
 そのうち爆音と共に空爆が始まり、『シュルルルー』『シュルルルルー』と音を立てて、何か落ちてくるので、叔母が布団の端をめくり、恐る恐る外を眺めたら、焼夷弾の一発が自分達のすぐ傍らに落ちてきて、叔母は「もうダメだ!」と思ったけれど、不発弾だった。
 翌朝叔母たちの周りには、黒焦げになった死体が、沢山あった。直撃を受けたものもあった。黒焦げになった死体は、トラックで集められて、荷台は黒焦げの死体の山。埋葬のためにどこかへ運んで行ったと思うが、その光景が今も忘れられないと、母も叔母も口を揃えて言いました。
 幼いころから母に聞かされた想像の中の福井空襲は、テレビで見たロシアのウクライナ侵攻による集団墓地、黒い死体袋に入れられ、運ばれていく光景に鮮烈にオーバーラップしました。太平洋戦争での米軍の福井空襲や、戦争の恐ろしさを、ようやく実感できた瞬間でありました。

↑荒川(桜の馬場)

↑左より二人目父、右本人

弁当箱の蓋を開けられなかった父
 これは父(昭和11年生まれ)から聞いた話です。父は市ノ瀬町出身、鷹巣の海岸へ行く山中の農家で、戦争の被害は遭いませんでした。
 父の通う小学校に、米軍の空襲を避けるために、地方に疎開した子ども達がいたようです。
 満足に食料がなく、お腹を空かせたその子たちの目の前で、白いご飯がたっぷり詰められた弁当箱の蓋を開けられなかった、と父は言いました。
 口下手であまり話さない昭和男の父から初めて聞いた、福井の戦争の話でした。

母の買い出し列車
 戦時中も戦後も食料がなく、まだ子どもの母(昭和9年生まれ)ときょうだいは列車に乗り、食料の買い出しに行った。母の母(祖母)は既に他界していた。
 何とか手に入れた食料を持って、やれやれ駅に着いたもうすぐ我が家だ、と安堵する間もなく、駅に、警官が立っていることに気づいて、震えあがる。ヤミの食糧なので、見つかると警官に取り上げられてしまうからだ。仕方なく次の駅まで行く、そこに警官が見張っていたら、次の駅まで。
 やっと降りることができた駅から、自宅まで歩いて帰ることになるが、その道のりの遠い事、食料の重い事、「おまえたちは幸せだ」とそのつらさを母はよく私と弟に語った。

弁当箱の蓋を開けられなかった父
 これは父(昭和11年生まれ)から聞いた話です。父は市ノ瀬町出身、鷹巣の海岸へ行く山中の農家で、戦争の被害は遭いませんでした。
 父の通う小学校に、米軍の空襲を避けるために、地方に疎開した子ども達がいたようです。
 満足に食料がなく、お腹を空かせたその子たちの目の前で、白いご飯がたっぷり詰められた弁当箱の蓋を開けられなかった、と父は言いました。
 口下手であまり話さない昭和男の父から初めて聞いた、福井の戦争の話でした。

父(昭和9年)、母(昭和10年)から聞いた話

 女性 昭和38年生まれ 福井市/名古屋市

父(昭和9年生まれ)から聞いた話 
①国民学校
 戦時体制の国民学校は、昭和16年から昭和22年までで、敗戦後は名前だけだと思いますが、私の父(昭和9年生まれ)は、戦時体制の国民学校に丸々通った年代です。軍事訓練で、体が弱かった同級生が殴られ、目の前で、みるみるうちに顔が腫れ上がっていったと。

②校庭でカボチャ作り
 また、とんでもなく固い校庭を耕やし、食料だとかぼちゃを植えさせられたが、夏に敗戦。かぼちゃは、子ども達の口に入らず、大人が手にしてしまった。
 かぼちゃがトラウマになった父は、かぼちゃ料理に箸をつけることはありませんでした。

③父も、殴られました。
 皇族が戦死されたとき、クラスの端から1人1人弔意を述べるよう教師に言われ、次々と哀悼の意が語られ(それしか回答が無いわけですが)私の父親の番になったとき「何とも思いません」と言って殴られたそうです。
 さすがに私も、「お父さん、何か上手いこと言わなかったの?」と尋ねたら、父は考えていたけど、前の人に全部言われてしまったから…と。私の父のへそ曲がりっぷりからするに、案外確信犯かもと思います。
 当時の住所 鯖江市杉本町付近。

母(昭和10年生まれ)から聞いた話 
 南条郡今庄町宇津尾(当時)の母(昭和10年3月生)から何度も聞かされたけれど、ググっても何も出てこない戦時中のお話をふたつ。
①学校のお弁当には、白米を入れてはいけなかった
 全戸農家で自給自足出来ていて、ひもじいという思いを経験したことのない母でしたが、国民皆が苦労しているのだから、学校では雑穀米を食べましょう、ということになった。
 母の母親(私の祖母)は、毎朝かまどで、ご飯を2種類炊いた。片方は米だけの白飯。片方は娘の弁当箱に入れる雑穀米。当然、雑穀米は美味しくない。しかし昼食時、教師が見回りにきたらしく、雑穀米は絶対だったようです。
 母は、今ごろ家ではみんな白飯を食べている、と恨めしく思いながら弁当を食べていたと。食べ物の恨みは強いので、この話は、かなり何度も聞かされました。
 でも他の農村でそういう話を聞いたことがないので、国策ではなく、地方役人のローカルルールだったのか?

③米軍が散布した銀紙
 山仕事に行った大人が「アメリカが撒いた」というヒラヒラした銀紙を見せてくれて楽しかった、という母の話。ずっと思い出の中に沈んでいましたが、つい最近‘チャフ’という物を知り、母親の言うヒラヒラした銀紙はそれだったのかと思い当たりました。
 第二次世界大戦中にイギリスが開発したレーダー撹乱用品で、米語だと‘チャフ’。銀紙がレーダー波を撹乱するので効果的且つ低コスト。最初に使ったのは日本軍だそうですが(模造紙に銀紙を貼ったもの)、南方戦線で使用したようですし、敦賀空襲のことを思うと、やはり米軍が散布したものかと思われます。こういう詳しい資料って中々ヒットしないので、もっと詳しく形状を聞いておけばよかった。
 しかし、アメリカが撒いたもの、って拾ってきちゃう大人も結構ゆるい(笑)山間孤立集落のゆるさかなと。敵性英語禁止の日本軍は『チャフ』をどう呼んでいたのでしょうね?

学校の夏制服を、よもぎで緑色に染めた
 敦賀空襲が7月12日。
 よもぎで緑に染めたというなら、夏制服のはず。機銃掃射に合ったとき、草むらに逃げれば目立たない、という理由だったらしい。よもぎで染めると落ちないと母は言っていました。
 しかし、これも戦時物ドラマやアニメで見たこともない話で、やはり地方役人が知恵を絞った「何かやってます」というための何かだったのか。
 他の親族に確認したことが無く、母親より歳上の親戚は皆鬼籍に入ってしまったので、今となっては謎です。
 あのものすごい山奥の集落にアメリカ空軍が来るとは思えないし、それに機銃掃射は低空飛行の目視なので、制服の上半身を緑色にしたところで効果はなかったと思うのですが、竹槍や薙刀の練習をした国ですから、まああったのかもしれません。
 これもまた国策ではなく、地方役人が精一杯考えて決めたその地方だけのルールだったのか。

 よもぎ (Wikipediaより)


←銀紙?チャフ?ウィンドウ?(本人提供)

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