
中村 惠實 さん
男性 昭和20年生 福井市森田町(現在丸岡町在住)
福井空襲の事
『福井空襲と米軍』
昭和19年アメリカの大型爆撃機B29は焼夷弾を落としまくった。市内は火の海と化したそうだ。米軍は大分前から情報を掴んで、用意周到だったとの事。
福井空襲直後、心配した父が福井市内の妹夫婦(私の叔母夫婦)のところへ向かう途中、高木町あたりでバッタリと二人に出くわした。おじはバケツとほんの少しの荷物、空襲が凄かったこと、無事であんなに嬉しかったことはないとよく言っていた。二人は森田町の叔母の実家(中村本家)と我が家を目指していたのだ。
空襲時、福井市在住の叔母夫婦が心配でならなかったと、父母や本家の人の話、また無事だった叔母夫婦からも空襲の凄まじさを聞かされた。何度も聞いた。
『防空壕の中で』
B29が飛来したとき、母に負ぶわれた私(昭和20年4月生)が泣くのを、周囲の大人が「泣かせるな、敵機に聞こえてしまう」と怒鳴ったそうだ。聞こえるはずがないのに、正気ではなかった(笑)
『空襲の夜』
福井市が真っ赤に炎上するのを、キレイと言ったとんでもない者がいたと聞いた。
『米軍と空襲』
B29は石川県を爆撃せず、富山を狙った。何となく富山方面の夜空が赤っぽく明るかったと。
奈良県や京都府、そして石川県への空襲はなかったが、それはアメリカも世界的にかけがえのない歴史と文化の県だという認識があった。またマッカーサーがかつて京都で過ごしたこともあって、彼の意向が働いていたと聞いている。
『虫の知らせ』
日中戦争の頃、田舎の親戚のお爺さんが、いつものように山仕事をしていた時の出来事。突然、今迄出たことのない鼻血がバッと出たそうだ。「あ、兄貴がやられた」と、直感した。
急いで山を下り、婆さんに話し、仏壇に向かった。後日通報があり、果たして長男は、あの日、あの時に戦死したのであった。村の誰からも褒められる程の惜しい人物だった。今は立派なお墓の中から、みんなの幸福を応援してくださっている。
暮らしの事
『闇市』
日本は、第二次世界大戦に敗れ、昭和20年8月15日に終戦する。
終戦直後は日本中が、食料をはじめ物が無く大混乱した。物価が高騰した。あちこちに闇市なるものが立った。闇市は今のフリーマーケットのようなものです。私の父も知人や親戚の人と、よく東京へ出掛けた。福井では入手できない生活必需品が目当てで、自転車の空気入れもその一つ。10丁ほど買って帰ると飛ぶように売れ、汽車代も軽く浮き、また出掛けたとの事。
勲一等の勲章まで出ていて、真ん中に大きなルビーが施されていた。よほどの軍人さんが生活のために手放したのか。思い切って買えば良かったと、私の父は残念がっていた。
闇市にはいろいろ珍しい品があって、パン製造機や煎餅焼き器は、長く重宝した。
『淡谷のり子さんとモンペ』
「ブルースの女王」と云われた大歌手の淡谷のり子さんは、戦時中、慰問のステージでもどこでも、モンペなどは着用しなかった。当然軍部から強い注意を受けたが、自分の意思を貫いた。淡谷さんは、歌手は歌手としての正装で聴いてくださる人の前に立つ、と言う決してぶれない信念があった。見上げたプロ根性であった。有名な話である。
❝窓を開ければ 港が見える
メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて
今日の出船は どこへ行く❞
淡谷のり子『別れのブルース』
作曲:服部良一 作詞:藤浦洸
1937年(昭和12年)にリリースされ、大ヒットを記録した。
『おにぎり』
終戦まもなくの頃だった。父は石川県大聖寺駅から森田へ帰宅すべく汽車に乗った。車内はいろんな階層の人たちが元気なく、しかも混んでいた。その中でもひときわ気を引いた中高年の男性が力なく坐っていた。
青ざめた顔、前かがみの辛そうな姿勢、時折祈るように、天を仰ぐ。見ていられなくなって父は声をかけた。「私は京都の知人を頼って、昨日北海道を立ったのです」実は昨日から何も食していないとの事。その時父は訪ねた山中温泉町のお寺の奥さんが妻子にと握ってくださった貴重な銀シャリの大きなおにぎりを一つ懐に抱えていた。
今この人にあげなくては危ない。一瞬迷ったという。決断するのは早く、虎ノ子のおにぎりはその人の手に。いただいて涙を流し、何度も父に手を合わせたとのこと。
あの人は無事、京都へ着けたのだろうか。ずっと気になっていた。私も母も良い事をしたと、改めて父の優しさに触れた。
(注)日本全国中、食糧難の時代だった。全国民が田舎への買い出しに行くも、まともな形状の野菜を入手出来なかったらしい。サツマイモでもクズみたいなものしか分けてもらえず、それでも手に入れれば大喜びしたらしい。買い出し列車、買い出し部隊という言葉もあった。
『Y君』
昭和20年の終戦の年に生まれた同級生の彼は、性格の良い男。小学生の頃、外で一緒に遊んでいると、上空高く、飛行機が。彼は飛行機を仰ぐ度に、「あの飛行機には、僕のお父さんが乗っている」と言ったものだ。お父さんは戦死された。継父と母さんと3人、長屋暮らしを中学までしていた。彼から詳しいことを聞いていない。
軍隊の事
『鯖江歩兵三十六連隊』
戦時中、鯖江市には陸軍の鍛錬場として兵隊を戦地を繰り出す練兵施設があった。有名な、大日本帝国陸軍歩兵三十六連隊である。県内から入隊した兵隊さんは、あらゆる事態を想定した厳しい訓練を前日受けるわけである。重いリュックを背負い、重たい鉄砲持って、長距離走もその一つ。練兵場の奥の一本松までの往復走は速さを求められ、辛かったらしい。「早駈けの一本松の憎らしさ」とは、父の一句。
私の父は鯖江三十六連隊に入隊したが、技術系で外地に行かなかった。「自分も行かせてください」と申し出たが、お国に残るのも立派な任務、その心意気天晴れと宥められたそうだ。
『豪傑の三浦さん』
昭和30年台、M中学校の用務員をされていた三浦さんのこと。
プロレスの力道山のような顔、体格で、片腕だった。スポーツ好きで、町民体育館には必ず砲丸投げや、三段跳び、走り幅跳びなどに出場された。明るく快活で人気者だった。外地で戦争中、敵と揉み合う接近戦になった時、砲弾で片腕を無くしてしまった。その時、千切れた腕で敵を打ったというから驚きだ。相手はびっくりして逃げたそうだ。
私も町民体育大会の時に、何度か話を交わしたことがある。M中学校は私の母校でもある。
『傷痍軍人』
寺社の祭礼の日、人通りの多い参道に、軍帽を被って、白衣の負傷兵が座っていたり、立ってアコーデオンで軍歌を奏でていた。戦後10年位は見掛けた光景だ。片腕や片足の人もいた。そして金銭を乞うものであった。傷痍軍人と言われた。
しかし、本当の軍人さんなら国からお金が支給されたので、中には偽物ではないかと話す人もいた。参拝の人々はお賽銭箱にお金を入れても、兵隊の前は素通りしていた。
私の九州の伯父は、海軍の猛者。
駆逐艦の甲板にいた兵が荒れ狂う海に放り出され、誰もどうすることもできなかった。伯父は部下にボートを降ろさせて救助に向かった。本艦に戻れの手旗信号を無視して、とうとう救出する。きついお叱りを受けるだろうと思ったら、反対に褒められたとのこと。
この伯父が南方の島で(ラバウルか?)夜どこからともなく美しい尺八の音が聞こえてくる。こんな戦の中でもなんと素晴らしい、これぞ武人の嗜み、ワシも習おうと思い訪ねてみたら隊長殿だった。そこで気が合い習うことになった。後年伯父は尺八を何本も持ち、来福すると九州の民謡などを披露してくれた。外山流。号は❝白山❞。
『守り刀』
この九州の伯父が出生するにあたって、父は武運長久、無事を祈って、短刀を進呈した。海軍として活躍した伯父は、果たして無事帰還した。
実家は福井、戦友会もあって、時々福井にやってきた。人気者で親戚がたくさん集まった。快活で民謡、尺八、語りなど上手だった。
私が成人した年、父が進呈したはずの短刀を「これは、お前のお父さんが、ワシに下さった守り刀だ。お陰でこうして居れる。役目を終えたので、お前に返す。」と言って伯父は私にくれた。薩陽子元平の作で、錆ひとつない見事な名刀である。もちろん銃砲刀剣所持許可証も付きである。
『義眼の元兵隊さん』
終戦の年生まれた私の家に、父の親友のおじさんが時々やってきた。中国大陸で、砲弾の破片が片目に突き刺さり、義眼になった。お互い下の名で呼び合い、快活で頭の良い人だった。戦地から父へ沢山の便りをくれた。
『闇汁』
軍隊生活での1コマ。或る日、お馴染みの闇汁という鍋料理をすることになった。字の如く真っ暗な中での食事会である。すき焼きを旨い旨いと言っていると、「この肉は味が良いが、なかなか噛み切れんなぁ」と、言い出す者が1人また1人出てきたとのこと。実は賄い兵、またはイタズラ兵が、古い軍靴の一部をそっと放り込んだらしい。そして、ニヤニヤしていたそうだ。
戦後の暮らしの事
『木のプロペラ』
終戦後の昭和21・2年頃。母の実家の伯父は、我がM町の小学校の教員をしていた。ある日、単発機の木製のプロペラを私の家に預けた。それが23年の福井大震災で、修復不能なくらい壊れてしまった。入手経路とか、零戦闘機か、神風か、それとも…伯父か父に聞いておくべきだった。凄いことだったのに、非常に残念だ。
『焼夷弾』
終戦からいくばくか経て私の父は福井市郊外の田の中に突き刺さっている焼夷弾の残骸を見つけ、持ち帰った。私が小学校に入った頃までは家にあった。1m弱の鉄製の六角柱で鉛筆のような形状。もちろん中はカラッポだった。

1945年の長岡市爆撃で使用されたM69 6ポンドナパーム焼夷弾。新潟県立歴史博物館に展示
『木製のテッポウ』
我が家の物置に、木製のテッポウがあった。 これは敵がいよいよ日本に上陸して、内地決戦になった時、女性や老人までもが戦うための訓練用の武器だった。
私も小学生の頃、実際それで遊んだ覚えがある。 主に突きの訓練だったらしい。いつしか失ってしまった。残念。
アメリカの『進駐軍の話』*
*昭和26年頃まで本部を福井市中心部に置いていた。
①進駐軍は保安の名目で、民家を訪れ武具を没収する‥‥
そんな噂があったので、もとは士族で、刀や弓や槍が沢山あった中村さんの実家では、貴重なものは隠しました。
しかし女衆しかいない昼間に、進駐軍は大型ジープで中村さんの家と本家を突然訪れて、長押などにかけてあった薙刀や槍や刀等を持って行ったそうです。男がいたとしても、抵抗できたのか。
②終戦後進駐軍が、福井城址周辺に居住していて、ジープで見回りに出た。
外国人の兵隊や、車が珍しくて、子どもたちが集まってくると、米兵は、チューインガムやチョコレートをばら撒いて、子どもたちがそれに群がる間に、去っていったそうです。小さい子供でも、ハロー、サンキュー、グッバイと英語を喋ったようです。


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