1.福井空襲を知っていますか?
2.福井空襲を、何で知りましたか?


空襲経験者の声

私は空襲を体験した。
戦争はNO!
(鍋谷世津子 女性 昭和10年生 福井市)

空襲警戒警報が出たので、母と弟と三人で、近くの川のそばまで逃げた。
福井の町が真っ赤に燃えていた。
(男性 83歳 丸岡町)

福井空襲により家が焼失しました。
黒く焦げた死体を見ました。
友達のお母さまがお堀で亡くなりました。
空襲を逃れて、経田から市内の空が赤く染まるのを見ながら、夜が明けるのを待ちました。 (女性 昭和8年 福井市)

画 吉田克也
母の実家が森田だったので、空襲の時、母と祖母に連れられ、今の家(丸岡)近くの電車道(50m位)で福井空襲を見た記憶があります。
(吉田克也 男性 82歳 丸岡)

私が聞いた福井空襲の話

倒壊した家の下で
助けを求める人々が多くいた。
(男性70代 福井市)

B29によって、集中的に爆撃を受け、 多くの人が犠牲になった と聞きました。
(女性50代 福井市)

人がたくさん死んでいる状態。 空襲の恐怖 とか。想像できないと思う。
(女性60代 福井市)

焼け野原状態 のところを、人が歩いていた感じ。
(女性60代 敦賀市)

人がゴロゴロ死んでいる 状態。
焼け野原状態。
(女性 60代 福井市)

福井市の繊維工場を目標に空襲があり、中心市街地が焼け野原になった。学校で。
(女性40代 越前市)

福井空襲で、 福井市が焼け野原になり、 死者がたくさん出た。
(男性50代 越前市)

知人が、終戦直前で、 特攻に行かずに済んだ という話を聞いた。
(男性70代 福井市)

空襲より福井地震のほうが、予期できずに大変だった。
状態的には、 どちらも〝火の海〟だった と、聞く。
(男性 70代 福井市)

社会科の授業で、日本全国のいたるところで 福井空襲のような悲劇が起こっていたと、聞きました。広島・長崎の原爆の話があまりにもクローズアップされているけれど、そこだけじゃないんだと。
(女性60代 福井市/四日市市)

私は当時7カ月の乳飲み子でした。市内から4㎞離れた所に住んでいましたが、母(大正7年)に抱きかかえられ、近くの山に逃げたと聞いています。その時、市内の空は赤く染まり大変な恐怖でした。沢山の人が お堀に入って亡くなった事 も聞きました。
(男性70代 福井市)

なせ、こんな地方都市を狙うのか?と思った……。
中学1年の時の教師が、美山町に疎開していた。空襲の夜は、福井の町が真っ赤に燃えていて、近くに落ちてきたら消化するように、大人に言われて、バケツに水を張って見ていたと聞いた。
(女性 昭和38年 福井市/四日市市)

妻の母の話では、市内に住んでいたので、空襲の時は、子どもをおぶって逃げたが、途中おぶった子どもが、小便をしたいと言い出し、自分の背中でするように言ったという。それ程、命からがら逃げたそうです。
(男性 70代 福井市)

母と祖母から、福井空襲のことを聞きました。
女学生の母は一人でいる時に空襲を体験。
祖母は母を探し回り、空襲警報がでると、身を伏せていたそうです。
(祖母 明治生まれ 他界、母 現在92歳)
(女性60代 福井市)

敦賀空襲が、7月26日にありました。
福井空襲は、その三日後だったと、親から聞きました。
敦賀空襲の内容についてはよくわかりませんが、 敦賀の東洋紡績に爆弾が落とされ、多くの女工が亡くなったそうです。
(男性 77歳 敦賀市)

家の近くに防空壕があり、そこへ歩いて入った。周囲の熱から逃げ、体を冷やすために、荒川に入った。川の中に沢山の死体もあった。
テレビで見たり、近所の年配の方(80歳くらい)から聞きました。
(女性 57歳 福井市日の出)

「牧の島のかんちゃん」と親戚のおば達が呼ぶほど、優秀で努力できる人であった父(大正7年生まれ)は、ビルマの最前線で中隊長として大砲を持って逃げ回り、食料もなく、若い貴重な時間を棒に振り、 その後栄養失調から長く寝込み、就職の機会を失ったのは、残酷なことだと思う。
(男性69歳 福井市)

父は今立出身で、空襲を直接見ていないし、よく聞く戦時中の食糧不足も「農家だったから、食べ物はあったよ」と言っていたので、農村部はまだましだったのかなと感じていました。対して母は、彦根市で空襲を体験し、農家ではないのであまり良い物は食べられなかったと。 地域差を感じました。
(女性 昭和40年生 京都市/今立郡)

父(昭和12年生まれ今立)は空襲を直接見てはいないが、福井方面の空が真っ赤だったと話していました。
母(昭和12年生まれ今立)は当時彦根に住んでいて、空襲から逃げた経験があるそうです。 ある日防空壕に逃げた時、すぐ近くに弾が落ちて、その衝撃に乳児だった母の妹は異常に泣いて、その後軽い知恵遅れ気味になりました が、その衝撃が原因だと、母は思っているようです。
防空壕は家の前にありましたが、山の方へ逃げた事もあると言っていました。
(女性 昭和40年生 今立/京都市)

福井空襲のことは、小学校の教科書で知ったので、詳しい内容までは知りません。私は丹南地区生まれで、福井市に親戚がいれば別ですが、丹南地区の人は、福井空襲を詳しく知らないのではないかと思います。丹南地区と福井市の人達との間には隔たりがあります。
亡くなった昭和5年生まれの母から
『日本は侵略した国で、捕虜の目玉をくり抜いたり、それはそれは酷い事をした』と聞きました。
(女性70代 丹南地区)

一面火の海となり、お堀の方に逃げたのですが、人が一面に水に入っていたり、亡くなっている人を見たと母が言っていました。
空襲で家が焼けてしまい、親戚のいる三国へ疎開していたそうですが、 祖母と叔母(社会人)と母(女学生)の三人暮らしで、不安な思いをしたそうです。また太平洋戦争から、義兄が無事に帰ってきてうれしかった記憶を話してくれました。
(女性60代 福井市)

空襲の恐怖に戦った人々の気持ちが想像できる。防空頭巾を被ったり、窓硝子には貼り紙、防空壕があったところもある。また、バケツには水を用意、ラジオに耳、メガホン、包帯と準備されていたと聞き及ぶ。とにかく、人が死ぬ、傷つくことが一番怖い。
勿論建物も文化財等も壊されたくない。どこの国であっても、あってはならない行為。たとえばスズメバチの襲撃など、『襲』という文字は消えて欲しい。
(中村恵實 男性 昭和20年生 福井市森田町)

福井空襲はメディアで知りました。
福井市のスローガン
『フェニックス 不死鳥のまち』願いがこめられたその名前の由来は、福井空襲、福井地震、水害と何度も大きな災害が起こっても、福井市は復活したことにより、名付けられたことを知りました。
(女性 50代 坂井市)

両親は当時10歳前後で、遠くの空が真っ赤になっていたことを覚えていると、話していました。
義父は満州の戦地で実弾をあびましたが、助けられたそうです。
あまりその話には触れたくないとのことでした。
(女性50代 越前市)

進駐軍についてはほとんど聞いていません。
母の日記の編集時に調べたところ、昭和20年9月までは来ておらず、11月20 GHQが来たことを確認しました。
(男性70代 福井市)


コメント